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戸田金左衛門について

 投稿者:源右衛門  投稿日:2017年10月16日(月)00時52分45秒
  戸田正彦様、前回はご回答有難うございました。戸田金左衛門につきまして、新たに分かった事がございましたので、お伝えさせていただきます。
落穂集という第十五巻に次のように記載がございました。
ここに記載の戸田八郎右衛門と古老遺筆に記載の戸田金左衛門は同一人物と思われます。
それぞれ書かれた年代が違うようですので、改名前後ということかもしれません。
ここから新たに分かることはないと思いますが、もし何かあるようでしたらご教示頂ければ有難く思います。

慶長二十年(1615)五月二日に大御所、将軍は京都を出発して大坂に向かう予定だった。
ところが四月廿六日に近江国の代官鈴木左馬助が戸田八郎右衛門と云う浪人に兄の仇との事
で日の岡で討たれた。 戸田は山城の三井寺の方へ立退いたが、その時左馬助が持っていた
書類箱を京都所司代の板倉伊賀守へ差出した。 その中に大坂城内からの密書があり、一揆を
企てる廻状である。 調査の結果左馬助の舅である古田織部、茶道の木村宗喜を始め仲間
廿四人が連座しており、糾明の結果の白状によれば両御所が京都を出発した後、帝を擁して
二条城を攻め取り京都を焼き払う計画である。 この為二日の出発予定は延期され、木村宗喜
を始め仲間廿余人は日の岡で磔罪に処せられ、古田織部にも切腹を命ぜられた。
 
 

ホームページ移転のお知らせ

 投稿者:HPオーナー  投稿日:2017年 9月10日(日)11時06分42秒
編集済
  「三河波上戸田氏の系譜」HPおよび本掲示板の管理者の豊橋の戸田です。掲示板をご活用いただきまして有難うございます。これまで本HPはKDDI(Dion)のサイトを利用してきましたが、KDDIのHP公開サービスが10月31日をもちまして終了することになり、本日、HPをTEESに移転させていただきました。HP経由で掲示板をご利用の方はブックマークなどのURLの変更をお願いいたします。(掲示板そのもののURLの変更はありません)以上お願いいたします。

http://www.tees.ne.jp/~samtoda/

 

戸田正彦様

 投稿者:源右衛門  投稿日:2017年 8月30日(水)22時27分50秒
  ご丁寧にありがとうございます。①信頼のおける書物なのですね。そうしますと当家の源右衛門と尾張藩の源左衛門とは当時はかなり近い親戚ということだと思います。ただ、源右衛門の父が梶原景宗なのか、祖父なのかまでは分からないのは残念です。②当家は幕末まで藤堂藩で代々家老を賜った梶原家になります。③古老遺筆は国立国会図書館デジタルコレクションに掲載されておりますので、源右衛門記載の箇所をリンクいたします。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899839
戸田左門は、氏鉄も左門なのですね。どうも源右衛門は近江、膳所藩と深い関わりを感じますので、膳所藩の資料を現在当たっているところです。また、彦根藩の本多直孝の命で源右衛門が長宗我部盛親を説得に向かわせたというのを見つけまして、現在調べています。本多忠政、本多政朝まで仕え、本多政長(大和郡山藩)の時には牢人したところまではは裏付けが取れています。
藤堂藩仕官から幕末までは、幸いにもお墓、過去帳が残っているので、ある程度の事は分かっているのですが、三重県津市は大空襲があり、当家も空襲に会い貴重な文書はすべて焼けてしまいました。本来であれば、藤堂藩仕官時に由緒書き、系図などが残っていると思われますが、藤堂藩仕官前の詳しい記録がないのが実情です。
藤堂藩仕官前を調べようと思ったきっかけは、なぜ、関ヶ原を戦っていない梶原家が1653年に仕官し家老まで至ったのかという疑問が始まりです。
これは梶原源右衛門の妻が関白豊臣秀次の側室になった多羅尾家で、妻の妹が藤堂高次の側室になり、この妹が生んだ子が藤堂藩3代藩主(藤堂高久)、支藩の久居藩初代藩主(藤堂高通)になったことによります。このことも多羅尾家の文書、系図から裏付けが取れています。
となると、なぜ、源右衛門は、多羅尾家と関係が持てたのか、おそらく、関係を持てた時期は、多羅尾家は改易になっていますので、故郷の近江?と調べていくうちに、小田原北条家水軍の梶原景宗の一族ということが分かった次第です。
さらにこの調べている過程で、梶原源右衛門が、鍵屋の辻の決闘にも関わっていることが分かり、藤堂藩仕官前を調べなければいけないという思いで現在に至っています。
戸田金左衛門のアドバイス有難うございます。
戸田家での資料は豊富に残っているようですので、やはり戸田家を調べてみます。進展がございましたら改めてご報告させていただきます。
いろいろとご助言に感謝いたします。
有難うございました。
 

源右衛門さま

 投稿者:戸田正彦  投稿日:2017年 8月30日(水)16時57分52秒
  いくつかにお答えし、又質問もさせてください。まず、①前回投稿した内容の出典ですが、<何に記載されているのでしょうか?>「十万石太平記」上巻・下巻あり、という、大垣藩の藩士それぞれの先祖について詳説した、貴重な本です。題名とは些か距離のある、地元を足で稼いだ実に優れた内容を持つ史料性の高いものです。ぜひご覧になってください。②次に、これは質問です。
<源之丞が藤堂藩に仕官し、家老まで至るのですが>とあるので、幕末は、貴家は(どちらの)藤堂家の家臣だったのでしょうか。3つ目ですが、<古老遺筆のP14に戸田一西預かり後、一西の計らいで甥の戸田金左衛門を養子にしたと記載がございましたので>この、「古老遺筆」とは?
③つぎの、「一西の計らいで甥の戸田金左衛門を」この部分がキーになると思いますが、まず、「一西の甥」ということは、一西の兄弟の息子と考えるのが妥当ですよね。寛政重修諸家譜によれば、一西には、姉が一人いて(他兄弟なし)戸田傳十郎吉國の妻になったとあります。吉國の息子であれば、まさに甥になるわけで、しっかりここをあたるべきと思います。吉國は子だくさんで、「8男九郎右衛門吉和」なる者もいたようなので、ほか七人或いはそれ以上の男子の中に、金左衛門がいたら、と思いますが。金左衛門という名前は、戸田氏にありうる名前で、なおかつ、戸田傳十郎吉國は大垣の戸田の藩祖の義兄になり、後にも多くの吉國系の人たちが仕官していますので、可能性は最も高いところと思います。因みにこのHPのオーナーこそ、吉國の子孫で、「波の上戸田家系図」は公開されています。最後に、戸田左門は一西ばかりでなく、一西没後、氏鉄も左門を称したようです。関ヶ原の後、戸田左門一西は没してますので、微妙ですね。以上課題は残りますが、ヒントになれば幸いです。
 

戸田一族様へ

 投稿者:愛媛の戸田  投稿日:2017年 8月29日(火)10時51分13秒
  武田勝頼が土佐に落ち延びて来たと何度か書き込んでおられますよね。私も知らなかったので調べてみたのですが、勝頼は天目山では自害してはおらず、自害したのは影武者で、その後勝頼は土佐に落ち延び「大崎玄蕃」と名を変え生きながらえたといった、誰かが作り出したかの様な伝説のたぐいですね、これは。
よって家紋が武田家と同じ剣花菱だという事に着目するのは、話しを混乱させるだけだと私は思います。ご先祖が武田伝説にあやかりたかったという可能性もございますし。

尾張三河を出自とする戸田一門である私にお手伝いできる事は、このあたりが限界でございます。
正直、土佐の戸田氏は私共とは別家と思われ、手掛かりがございません。
そこで私からの提案ですが、先日この掲示板に書き込んで下さった船戸の戸田氏の末裔の方に、直接ご質問してみてはいかがでしょうか。 同じ高岡郡の戸田なのですから、一門である可能性はゼロではありません。船戸の戸田様もご質問にはきっと答えて下さると思います。この件に関しましては、私は暫くの間、静観させて頂きたいと思います。 宜しくお願い致します。
 

戸田一族様へ

 投稿者:愛媛の戸田  投稿日:2017年 8月28日(月)15時11分14秒
  先日、私が掲示板でお尋ねした際に回答がなかったのでもう一度お尋ねします。
ご先祖様は、戦国時代は武士だったといった伝承はお家では語り継がれていないのでしょうか?
ご本家は、江戸時代は、何をされていたのでしょう? ルーツを探る上では非常に重要と思いますが、何か手掛かりはないのでしょうか?
 

戸田一族様へ

 投稿者:愛媛の戸田  投稿日:2017年 8月28日(月)14時47分58秒
  地名かどうか分かりませんが、こちらの仁井田の字一覧整理NO.131に上屋敷と書かれております。原本の書物が無い為、意味が定かでありませんが、仁井田の地に上屋敷という地名があった事を補足して記載している可能性がありますね。↓ここですが、わかりますかね?
https://www.shimanto-chimei.com/%E3%83%8A%E8%A1%8C-%E3%81%AA%E3%81%AB%E3%81%AC%E3%81%AD%E3%81%AE/%E3%81%AB-1/%E4%BB%81%E4%BA%95%E7%94%B0/


それと三日月神社というのは、今でも仁井田に有りそうですね。
https://yaokami.jp/1391928/

この程度の事しか、私には分かりません。
 

戸田正彦様

 投稿者:源右衛門  投稿日:2017年 8月24日(木)22時11分0秒
  戸田正彦様、ご返事有難うございます。戸田正彦様が記載いただいた内容は、何に記載されているのでしょうか?尾張藩柔術の梶原家は存じておりまして、由緒書きを見たことがあるのですが、その由緒書きには戸田一西ではなく、氏西に臣事すとなっていまして、当家の梶原家は一西の預かりになっていましたので、年代が合わないと思っていました。当家も小田原北条家水軍の梶原景宗の末裔になります。北条家滅亡後は、石田三成の舅の尾藤頼忠のところに身を寄せ、西軍敗北後は、戸田左門預かりとなり、その後、本多忠政、本多政朝まで仕え、本多政長(大和郡山藩)の時には牢人しています。
その後、梶原源右衛門の妻の妹が藤堂藩2代藩主の側室になった縁戚関係から1653年に嫡男の源之丞が藤堂藩に仕官し、家老まで至るのですが、北条家滅亡後から藤堂藩仕官までの資料はすべて源右衛門で、源右衛門の名前を引き継いでいるのですが、いったい何代代替わりしたのか、何よりも梶原景宗の嫡男なのかを知りたく調べております。
私が入手しました古老遺筆のP14に戸田一西預かり後、一西の計らいで甥の戸田金左衛門を養子にしたと記載がございましたので、この戸田金左衛門から梶原景宗の嫡男なのかどうかが分からないものか、または梶原源右衛門景○の実名景○が分かれば、近づくのではないかという思いで投稿させて頂いた次第です。わざわざお調べ頂き感謝いたします。また、何か分かることがございましたらご教示頂ければ有難いです。宜しくお願いいたします。
 

梶原氏について

 投稿者:戸田正彦  投稿日:2017年 8月24日(木)19時59分55秒
  源右衛門さま
大垣藩の記録に、:梶原源左衛門直景 平姓 家紋は「丸に並び矢羽」祖父の備前守景規は、相模の国小田原の北条氏直に、仕え、三崎の軍船頭であった。父の兵部景通は、はじめ氏直に仕えていたが北条氏が亡んだため戸田一西に仕官した。直景は、はじめ弥市右衛門といった。父とともに戸田家に仕えたが後、浪人し、(中略)・・・のち尾張藩に仕え150石。代々尾張藩士。直景の妹は,大垣藩主戸田氏鉄に仕えた緒方武太夫(150石)の妻となった。:とあります。戸田氏との関係は不明です。戸田一西の甥となると、兄弟の息子と考えられ、もう少し追いかけてみましょう。貴家の伝承とは異なる部分はあると思いますが、幕末は尾張藩士だったのでしょうか。相当武芸の達人の家だったようですね。取り急ぎこちらで入手した情報をお伝えします。
 

愛媛の戸田さま

 投稿者:戸田一族  投稿日:2017年 8月24日(木)11時02分22秒
編集済
  色々とありがとうございました。ちょっと間違いが有りまして、すみませんでした。場所を確認しましたら
海津見神社は茶臼山とは別でしたが近いです。ちなみに家の裏山が多分ですがその神社と隣の山になるので陣ヶ森になり昔は、神有城がありました。その城は誰がとかは不明らしいですが、茶臼山城と関係あるかもしれないとの事で、家がある場所の昔の名称は神有の上ヤシキと言う場所です 。間違えではなければ陣ヶ森の一部を持山になっているので、地図がとても見ずらく、何度か確認しましたが、地名等も関係があるかは分かりませんが、又調べて見ます。すみませんでした。
 

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